2026年1月30日


  志(こころざし)

 高校生の頃、ふと「何のために生きているのだろう」と考えて答えられないことに気付いて、友人に「何のために生きているのだろう」と尋ねたら「それを知るために」と答えてくれました。確かにそうだ、と妙に納得したのです。それからも、いつもというわけではないですが、時折、「何のために生きているのだろう」と自問することがあって、やはり長い間、自答できませんでした。ところが、いつの頃からか自覚はないのですが、そうだ、私はこのために生きているのだ、とおぼろげながら答えが出せるようになったのです。
 私は歴史が好きで、歴史に関する本をよく読んでいました。中央公論社刊「日本の歴史」、岩波書店刊「岩波講座・日本歴史」で日本の歴史を通観して日本社会は進歩し続けてきたと実感したのですが、歴史は進歩し続けていると考える進歩史観は、時代によって、識者によっては必ずしもそう考えられてはいませんでした。平安時代の末法思想のように社会は退歩し続けていると考える歴史観もあるのです。確かに私自身、現在の日本の状況に絶望している。日本だけではなく、世界が一体全体これからどうなっていくのか不安で一杯です。
 しかし平安末期の貴族が「世も末だ」と悲嘆にくれたのは没落する貴族にとってであり、新興勢力である武士にとっては新しい時代の幕開けだった。末法思想が流布された平安仏教に対して法然、親鸞、日蓮、道元が鎌倉仏教の開祖となりました。鎌倉時代以降、日本社会は武士が支配者として統治し続けたのですが、農業、工業、商業の発展によって士農工商の身分秩序が瓦解し、下級武士や民衆の力によって明治維新が達成され、福沢諭吉は「天は人の上に人をつくらず。人の下に人をつくらず。」と高らかに新しい時代の到来を告げたのです。
 私は、日本の歴史を通観するなかで、いつの時代にあっても、その時代を生きるすべての人々が、心豊かに、安らかに暮らせることを願い、そのために心を砕き、身を粉にする人たちがいた。その人たちの努力によって日本の歴史が進歩し続けたことに思い至って、少なくとも私は、非力、無力であっても、日本社会が進歩の階梯を一歩でも、二歩でも進むことに力を課すことが、人として生まれた私の使命ではないか、と考えるに至ったのです。「何のために生きているのだろう」と自らに問い続けて、大言壮語かもしれないけれど、今、私は「世のため人のため」と答えます。

2026年1月20日


  何のために

 古今東西、人は誰もみな、心と体と暮らしの平安を希求し、その願いが叶うよう、日々、自らの務めを全うしています。しかし、人は誰もみな、一人では生きていけない。人と人が、互いに支え合ってこそ生きていける。人それぞれが、それぞれに与えられた役割を全うすることで社会は成り立っているのです。
 私は今から53年前に「丸太や」に入社し、家業である呉服業に従事するようになりました。しかし長い間、呉服屋であることに生きがいを持つことが出来ませんでした。何のために着物を販売しているのかが分からなかったのです。唯に身過ぎ世過ぎのためなのか、食べていくためなのか、稼いだお金を好きなことに使うためなのか。心のどこかに、どんな仕事でもいい、人様のお役に立てる仕事をしたい、と切に思いました。
 ある時、お客様からテーブルセンターの別誂えの注文を頂きました。古代中国の瓦の文様を研究され、兵庫県の文化賞を受賞された記念に瓦の文様の拓本を図案にして制作を依頼されたのです。そのような特注を受けたのは初めてだったので取引先の友禅染の製造問屋「千總」の担当者に相談したところ名和野要さんを紹介していただき草木染でテーブルセンターを制作して頂きました。その出来栄えにお客様は大いに満足され喜んで頂きました。
 後日、お世話になった名和野要さんからテーブルセンターを制作して下さった草木染の工房の見学を勧められたのです。呉服屋になって初めて訪れた制作の現場は感動で一杯でした。草木染の染織家竹内誠吾さんは私たち夫婦に収集されている江戸時代の衣装を一つ一つ慈しむように広げて見せてくださいました。どのような染料で、どのような技法で染められているのかを丁寧に説明して下さりながら。次に正倉院御物の復元を依頼され当時の技法で染めた糸を見せてくださいました。工房では職人さんの仕事を拝見しながら着物の反物を制作する工程をご教示いただきました。
 生まれて初めて染織工房を見学し竹内誠吾さんのお話を聞かせていただいて、それまで私が商品として販売していた着物が、実は千何百年前から脈々と受け継がれてきた日本の染織文化を継承し、今なお熟達した職人芸によって再生される作品であることに気付かされたのです。呉服屋の仕事は、唯に商品を右から左に動かして利ザヤを稼ぐことではない。精魂を込めて着物を作る人の思いを、着物を愛してお召しくださるお客様にお伝えするのが呉服屋の仕事だ。呉服屋は日本の伝統工芸の精華である着物を「作り手」から「使い手」に受け渡す「繋ぎ手」なのだ。そう確信することが出来て私は、人として生まれ、呉服屋として世のため人のために働くことが出来る、と初めて確信したのです。

2026年1月10日


  出会い

 2026年1月10日、本日、私は76歳の誕生日を迎えました。古来、齢(よわい)60歳を迎えることは、中国古代の暦法上の用語である十干と十二支の組み合わせが六十年を周期として、「暦」が最初に「還」る、ということで「還暦」と称してお祝いするのですが、「還暦」は満60歳を称するのに対して、「古来希なり」ということで「古希」と称してお祝いする70歳は数え年だということを、つい最近になって知りました。私は6年前に70歳になった時に「古希」を迎えることが出来たと喜んだのですが実は、その1年前に「古希」を迎えていたのです。因(ちな)みに、「古希」の後、77歳は「喜寿」、80歳は「傘寿」、88歳は「米寿」、90歳は「卒寿」、99歳は「白寿」ですが、「古希」以降の祝い年はすべて数え年だそうで、であるなら満76歳を迎えた私は「喜寿」という有難くも目出度い年を迎えることが出来たのです。私の父は54歳でなくなりました。父が亡くなった後、父に代わって「丸太や」を守って下さった叔父も還暦を迎えることなく亡くなられました。何となく私は、私も長生きは出来ないだろうと思っていましたが、いつの間にか「喜寿」を迎えることが出来たのは望外の喜びです。
 76年の歳月は、過ぎてしまえば「光陰矢の如し」でしたが、しかし、1995年1月17日に勃発した阪神淡路大震災は、今なお、まるで昨日のことのように思い出されるのです。まさに「一寸先は闇」でした。震災の日から電気が復旧するまでの間、夜は漆黒の闇だった。お先真っ暗な中から手探りで、一歩一歩前に進み始めたのですが、震災直後から友人、知人をはじめ沢山の方から支援の手を差し伸べていただきました。差し出された暖かい手に導かれて30年、今日ここまで歩むことが出来たのは、素晴らしい出会いを一杯頂いたからです。奇跡のような出会い、それは「ご縁」という美しい言葉でしか表し得ないと、つくづく感じたのです。頂いた「ご縁」から、更に「ご縁」を頂いて、「ご縁」が繋がって、丸く円になる。阪神淡路大震災に、私たちは「一寸先は闇」と思い知らされたのですが、しかし同時に「一寸先は光」かもしれないことに思い至ったのです。光はいつも出会いの中から射し始めることを。出会いは「希望の灯り」なのです。