出会い |
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大阪シンフォニカーの創設が日本のオーケストラ史上、空前絶後の壮挙であったのは、行政や企業の支援が一切無いなかで、敷島博子さんという合唱が大好きな街のピアノ教室の先生が無手勝流でオーケストラを創り、今や、大阪交響楽団という押しも押されぬ大阪の四大オーケストラ、大阪フィルハーモニー、大阪センチュリー交響楽団、関西フィルハーモニーと並び称せられるオーケストラに育て上げられたことにあります。私は、創立当初から大阪シンフォニカーのメンバーとして参画させていただき、その一部始終を熟知している人間として声を大にして申し上げたいのは、敷島博子さんの壮挙は偏(ひとえ)に敷島博子さんの「良い音楽を」という熱い想いの為せる成果であったことです。その歴史的快挙に立ち会えたことは、私にとって最高の教訓となりました。 あの頃、私は敷島博子さんと運営のことで話をする機会があったのですが、ある時、私が「僕はやりたくないことはやらない主義なのです」と申し上げたら、静かな、しかし重い声で「三木さんはお幸せね」と仰られたのです。その瞬間、私は敷島博子さんが、それまで、どれ程、やりたくないことをやらねばならなかったか、と知ったのです。その頃、私は独身だったのですが「三木さんはどんな女性が理想ですか」と尋ねられたので「涙を流したことのある人です」と答えました。私は早稲田大学交響楽団に在団中、自分自身の余りの不甲斐なさに号泣したのですが、それは私自身の不甲斐なさから決して逃げたり、誤魔化さなかったから。だから、心のどこかに、共に人生を歩む人は、そんな人であって欲しいと思っていたのです。 私が大阪シンフォニカーの運営会議の席で、団内新聞の発行を提案したのは、早稲田大学交響楽団、西宮交響楽団の経験で団員相互の意思疎通が大切であると考えていたからです。オーケストラは社会の縮図です。団内には様々な立場、思想、信条を持つ人たちが「良い音楽を」という共通の目的を達成するために参加しているのです。私が団内新聞を制作することになり、ビオラ奏者の溝渕成美さんに協力をお願いしました。運営委員として一緒に活動しながら、彼女の才能を高く評価していたからです。溝渕成美さんは創立当初から参加した団員で、ビオラのトップ奏者、弦楽器のインスペクターをされていました。団内新聞を一緒に制作するようになって、彼女の聡明ではあるけれど気さくな人柄に接して心惹かれたのです。私には高嶺の花のような人でしたが、思い切ってビオラとチェロのデュエットをしませんか、と申し込んだのです。初顔合わせの数日後、手紙を頂いて「とても楽しかったです」と書かれた言葉を見て、私たち二人は結ばれるかもしれない、という予感がしたのです。出会いの神様に導かれて、私たちは1982年3月28日、結婚式を挙げました。披露宴では主賓の恩師岩淵竜太郎先生の目の前で思い出のディッタースドルフの二重奏曲を演奏しました。 |