大阪シンフォニカー |
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西宮交響楽団の運営委員を退任した後、私の「良い音楽を」という思いから少しずつ離れていくような気がして、オーケストラの現状に不満がつのったのです。そんなある日、コンサート会場で出会った音楽仲間のフルート奏者から「三木さん、こんど大阪に素晴らしいオーケストラが出来たの。三木さんも入らない」と声を掛けられたのです。敷島博子さんという主婦の方が始められた大阪シンフォニカーでした。将来、プロのオーケストラを目指して音楽大学の学生、卒業生で組織されたのです。偶々(たまたま)私がチェロを習っていた斎藤建寛先生が指導されていると知って、ご相談したら「オーディションがありますが、受けられたらどうですか」と仰られたのです。 敷島博子さんがオーケストラを創ろうと考えられたのは三つの理由からでした。一つ目は敷島さんのお嬢さんが音楽大学でピアノを勉強されていて、大学の友人に優秀な生徒が沢山いらっしゃるのに、大学を卒業した後、仕事の受け皿がないという現実でした。二つ目は、ご自身が長い間、合唱をされていて、本来はオーケストラと一緒に歌う作品をピアノ伴奏でしか歌えないという不満でした。三つ目は、合唱団を指導されている小泉ひろし先生の音楽性に惚れ込んで、専属のオーケストラを創りたいという理由でした。入団した大阪シンフォニカーは学生オケや市民オケからは隔絶した高度なオーケストラでした。指揮者の小泉ひろし先生、バイオリンの亀田美佐子先生、チェロの斎藤建寛先生の厳しい指導の下、第1回定期演奏会に向けた練習に参加し、その充実した高度な内容に圧倒され、興奮しました。 1981年3月17日、第1回大阪シンフォニカー定期演奏会は満員の聴衆のもと成功裏に終了しました。しかしその直後からオーケストラの運営への不満が噴出したのです。発足間もない大阪シンフォニカーに参加した団員は、近い将来、プロのオーケストラになると期待して入団したのです。ところが現状は、団費の徴収、チケットの販売、楽器の運搬、楽譜の整理などを団員が負担していて、何らアマチュアのオーケストラと変わらないのです。創団間なしに存続の危機に陥って、敷島博子さんは、すべての団員の意見を聞くためにアンケートを実施されました。 私は早稲田大学交響楽団、西宮交響楽団に在籍した経験に基づいて意見を書かせていただいたのですが、すぐに敷島博子さんから電話を頂戴し、指揮者の小泉ひろし先生が私の提言を読まれて大変喜ばれて、私に団の運営に参加してもらいたいとのことでした。私は、第2回定期演奏会に向けた練習が始まり、その練習後に開かれた運営会議に参加し、申し上げたのは、オーケストラは全く立場の異なるメンバーで構成されているので、何より団員相互の意思疎通が重要で、そのために、団内新聞を発行することを提案しました。その趣旨に賛同を頂き、では誰が団内新聞を発行するのか、という話になり、ジャンケンで負けた人が担当することになり、結局、私が負けました。 |