市民交響楽団

 1973年、私は大学を出て神戸に帰り、家業の呉服屋になりました。一年後、早稲田大学交響楽団の後輩が神戸の企業に就職し、店に立ち寄って「三木さん、市民オケに入りませんか」と誘ってくれて西宮交響楽団に入団しました。市民オケは学生オケとまるで違って、団員の年齢、職業が様々でした。しばらくして練習の後「飲みに行かないか」と誘われるようになりました。音楽談議が盛り上がって、一緒に室内楽をするようになりました。家業の「丸太や」は小さな店ですので人間関係が狭かったのが一挙に広がって、トリオがカルテットになり、ピアノが入って、フルートやオーボエも加わっていきました。
 私は家業の呉服屋になることに何の躊躇(ためら)いもありませんでした。日本の伝統工芸を継承する呉服業に希望を抱いていたのです。しかし次第に、呉服屋と言う仕事に疑問を持つようになったのです。その頃、着物を買ってくださるお客様は沢山いらっしゃいました。しかし買った着物をお召しになるお客様はほとんどいらっしゃらなかったのです。本来、着る物である着物を、着ていただけないなら、着物を売ることに意味があるのか、と思うようになったのです。仕事に満たされない心の空隙を埋めようとするかのように音楽に没頭しました。熱っぽく音楽を語る私をオーケストラの仲間が推薦してくれて西宮交響楽団の運営委員になりました。
 私は西宮交響楽団の運営委員として庶務に携わるなかで気付いたことが色々ありました。オーケストラの全体練習は西宮中央公民館が会場で、パート練習は市内各所に在る公民館でした。西宮市は公民館が充実していて文化サークルの活動に会場を提供しているのです。会計として団費の徴収をするようになり滞納しているトロンボーンの団員に納入を求めた時のことです。「僕の楽器は演奏会でほとんど出番がないのだけれど弦楽器の方は一杯あるのに団費は同じっておかしくないですか」と言われて返す言葉がありませんでした。オーケストラは弦楽器、木管楽器、金管楽器、打楽器で構成された混成チームです。同じオーケストラのメンバーでも楽器によって立場は全く違っているのです。ごく当たり前のことに気付かされました。オーケストラにとって一番大事なのは選曲です。演奏会でどんな曲を演奏するのか、という。選曲もメンバーの要望が多岐にわたるのです。ハイドンやモーツァルトのような古典派の音楽は金管楽器の出番が少ない。ショスタコーヴィッチやストラヴィンスキーのような近代音楽は弦楽器がとてつもなく難しい。ブラームスやチャイコフスキーのようなロマン派の音楽は大曲で難曲であっても比較的どの楽器からも不満は出ないのです。
 私は気が先走りして前に進めたがって、後ろを振り返ると誰も付いて来てくれないことが度々なのですが、任期の最後の年、選曲会議で金管楽器の若手のメンバーから春の定期はショスタコーヴィッチの交響曲第5番、秋の定期はストラヴィンスキーの「火の鳥」が提案され決定しました。私自身、挑戦したかった曲だったのです。しかし弦楽器のメンバーからは「難しくて弾けない」という不満が噴出して、出演を辞退する方もいらっしゃったのです。年度末に会計監査を受けることになり、監査役は私より60歳ほど年長のビオラ奏者でした。「三木さんがなさることですから間違いはないでしょう」と仰ってくださったのです。監査が終わって、大阪で最初に開かれた第9のコンサートを聴きに行かれた話を懐かしそうに語ってくださいました。帰りの電車の中で、窓の外をながめながら、こんな音楽の大好きな方が一緒に演奏できないオーケストラにしてしまったのだ、と思ったら、窓の外の景色が涙で滲(にじ)んで来たのです。