復活の物語

 松本から、車でたどり着いた上田では、小山憲市さんにお世話いただいたホテルに宿泊しました。翌朝、ホテルの玄関に、小山憲市さんが迎えに来てくださいました。初めてお会いした小山憲市さんは、精悍で、清潔で、誠実で、家族全員、一変に好意を持ちました。車で、郊外にある工房に案内してくださいました。ご自宅と、同じ敷地に、染場と織場があり、奥様が、爽やかな笑顔で、私たちを迎えてくださいました。ご自宅に上がらせていただいて、応接間で、小山憲市さんのお話を聞かせていただいたのですが、聞かせていただいたお話は、小山憲市さんの、穏やかで、優しい表情とは裏腹な、驚くべきお話でした。
 小山憲市さんは、上田紬の代々の織元なのですが、着物の需要が、紬や小紋のような普段着から、次第に、留袖、振袖、訪問着、のような晴れ着に移行していきました。それまで、問屋からの注文で上田紬を制作されておられたのですが、次第に注文が減っていき、このままでは、とても生活が出来ない、とベルトコンベアのベルトの製造機械を導入して、上田紬の制作と平行して、ベルト作りをされておられたのです。ところが、ベルトも、海外から安価な製品が輸入されるようになり、注文が来なくなりました。上田紬も駄目、ベルトも駄目、と打つ手が無くなり、小山憲市さんは、廃業を決意されたのです。
 しかし、上田紬の代々の織元。小山憲市さん自身、織物作りを生涯の仕事として選択し、研鑽を積んでこられたのです。織物作りを止めよう、と決められて、しかし、それまでは、問屋の注文で、あれを作れ、これを作れ、と要求されて作ってきた。織物作りを止める、と決めて、最後の最後に、自分自身の持てる力をすべて出し切って、本当に自分自身が織りたいものを織ろう、それを最後に、織物作りを止めよう、と決められたのです。そして、最後の最後に織り上げた、上田紬の訪問着を、「全日本染織新人展」に出品された。その作品が、京都商工会議所会頭賞を受賞したのです。翌年には、大賞、文部大臣奨励賞を受賞されたのです。  それは、小山憲市さん自身、予想もしていなかったことでした。最後の一枚、と心に決めて織り上げた訪問着が、高い評価を受けた。もしかしたら、このような形で、織物作りが続けられないだろうか。織物作りこそ、生涯の仕事と、選んだ道だ。その道を、涯てるまで、歩み続けたい。もう一度、がんばろう。小山憲市さんのお話は、まさに、、復活の物語でした。