趣味の社会的効用 |
---|
依存症 |
最近、世間では、依存症の問題が話題になっているそうです。話題の中心は、賭博依存症のようですが、買い物依存症も、列記とした依存症だそうで、であるなら、私もその傾向が無くはない、有る。唯、程度によりけりで、私の買い物依存症は、比較的軽度である、と自己判断して安心しているのが、そもそもの間違いかもしれません。まあ、まだ家庭内争議には至っていません。 それはそれとして、私には無縁ですが、賭博依存症は深刻です。依存症への対策が必須である、急務であると言われています。私が思い浮かべる対策は、依存する対象とは別の、違った対象を見つけることが一つではないかと思うのです。もっと他に、心をワクワクさせるもの、トキメかせるものを見つけることが。私の場合であるなら、音楽、散歩、写真。国策として賭博を推進しようなど、論外。国が胴元になって、どうするのか。 昔から、「飲む、打つ、買う」は、三悪癖の代表のように言われていますが、お陰様で、今日に至るまで、私は、その悪癖に染まったことはありません。多少「飲む」ことはありますが、もっぱら家で、晩酌程度で、外で「飲む」ことはほとんどありません。なぜ、「飲む、打つ、買う」が性質(たち)が悪いのかと言うと、その理由は、あとに残らないからだと思います。 物欲も、ある意味、性質(たち)が悪いですが、あとに残る。あとに残るから、自分のやったことに自覚がある。買い物依存症であるなら、買い物したモノが残る。何でこんな馬鹿な買い物をしたのかと反省する。反省しても、また買うから買い物依存症なのですが。少なくとも自覚して反省するチャンスがある。ところが、「飲む、打つ、買う」は、あとに何も残らないから自覚の機会が乏しい。反省する余地が少ない。だから依存症に陥ると容易に抜け出せない。本人が気が付かないまま、他人が気付いた時は、すでに時、遅し。深刻です。 |
対策 |
依存症の対策として、私が推奨したいのは、趣味です。趣味を持つこと、楽しむことです。基本、どんな趣味でも構わない。「蓼食う蟲も好きずき」という諺がありますが、趣味ほど、その諺が当てはまるものは他にありません。趣味は、他人から見ると、実に馬鹿げている。理解を絶している。非常識、不合理。その昔、「いいじゃないの 幸せなら」という唄がありましたが、趣味も、本人が喜んでいるのだから、他人がどうのこうの口を挟む筋合いはない。 前口上が長くなりましたが、実は、はるか以前から、私自身の趣味について書きたくて、ムズムズ、ウジウジ、しているのです。書きたいけれど、書くことをジッと我慢してきたのです。なぜ我慢してきたのか、と言うと、要するに、自慢話になる。決して自慢できる話ではないのに、本人は、自慢していい気になろうとしている。さすがに恥知らずな私でも、多少、やって良いことと悪いことの区別はつく。これまでのところ、やってはならない、と判断してきたのです。では、なぜ、今になって、私の趣味について書こうと考えたのか、書くことにゴーサインを出したのか、というと、趣味が世界を救う、と本気で考えるようになったからです。 |
社会を明るく |
バブル経済崩壊後の日本は、救いようがない状態が続いています。一言で言うと、景気が悪い。景気が悪い最大の原因は、GDP(国民総生産)の6割を占める個人消費の低迷であることは明らかです。であるにもかかわらず、バブル経済崩壊後、時の政府の経済政策は、私に言わせれば、企業(それも大企業)の救済に最大のウエイトが置かれた。しかし、当たり前ですが、大企業優先の経済政策で個人消費が回復するはずが無い。可能性は限りなく零(ゼロ)です。 個人消費が低迷する最大の原因は、可処分所得の減少です。買いたくても、お金がないから、買えないのです。しかし歴代の政権が可処分所得を増やす政策を打ち出さない、打ち出さないどころか、さらに可処分所得を減らす政策を打ち続けている以上、可処分所得の増加による個人消費の回復は、全く期待できないのが現状です。であるなら、個人消費を増やす努力を、今以上に、我々、庶民が努力しなければなりません。消費を喚起する努力をしなければならないのです。その秘策や、如何に。私は、趣味の奨励にある、と考えるのです。 趣味は楽しい。楽しいことが趣味の真骨頂です。しかし趣味を楽しむために多少の出費は覚悟しなければいけません。それでも趣味のために使ったお金は、回り回って自分に返ってくる。「金は天下の回りもの」なのですから。誰もがみんな趣味を楽しむためにお金を使えば景気の好循環が起きる。さらに趣味を楽しんで人生を謳歌すれば社会は明るくなる。趣味の社会的効用の最たるものなのです。 |