趣味の個人的効用 |
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家業 |
私は、1973年5月に「丸太や」に入社し呉服屋になりました。家業の呉服屋になることに何の抵抗も、躊躇もありませんでした。子供の頃から日本の歴史が好きで、といっても絵本で源義経とか豊臣秀吉の伝記を読む程度ですが、小学校、中学校、高校では日本史の授業が大好きで、早稲田大学文学部では日本史を専攻しました。日本の伝統文化、美術、工芸、建築を見ること、古典文学を読むことが趣味な私は、日本の伝統工芸を継承する着物を扱うことを仕事に選択することに何の迷いも、ためらいもなかったのです。 しかし呉服屋になって間無しに、呉服販売を仕事とすることに疑問を抱くようになりました。当時すでに着物は冠婚葬祭の場でしかお召しいただけなくなっていました。「着物」は本来「着る物」であるはずなのに、普段の生活の場でお召しいただくことがない。着ていただけない「着物」を販売することが、はたして商売として真っ当なのか。呉服屋であることに誇りを持つことができなかったのです。その頃「丸太や」は、母が社長で、専務の叔父に先輩の社員が四人いました。職場の人間関係は他に取引先の担当者だけでしたので、私の狭量もあって、店の中では心を開いて会話することがありませんでした。 |
縁結び | 「丸太や」に入って1年後、早稲田大学交響楽団の後輩が仕事で神戸に赴任し、「三木さん、一緒にオーケストラに入りませんか」と声を掛けてくださって西宮交響楽団という市民オーケストラに入団しました。団員の方は皆さん年上でしたがすぐに打ち解けて練習後は居酒屋に誘っていただくようになりました。「丸太や」では「オーケストラって歌の無い伴奏だけの音楽でしょう」と言われていたのに「ブラームスはいいね。モーツァルトは綺麗だ」と言いながら飲むお酒は格別に美味しかった。まさに生き返った心地がしたのです。 西宮交響楽団では運営委員になって活動していましたが次第に演奏内容に不満を抱くようになりました。団員には80歳を超える高齢の方もいらっしゃって難曲に挑戦することができなかったのです。今思い返せば若気の至りだったのですが、もっと高度な演奏を求めたのです。そんな折、とあるコンサート会場で以前団友だったフルート奏者に出会ったら「三木さん、大阪に素晴らしいオーケストラが出来たの。三木さんも入らない」と誘われたのです。プロのオーケストラを目指して創設された大阪シンフォニカ―(現大阪交響楽団)でした。団員の大半が音楽大学の在校生、卒業生で組織された大阪シンフォニカ―は、かつて私の経験したことのない隔絶した能力を持っていました。私は大阪シンフォニカ―で演奏しながら楽団の運営に係るようになり、その中で家内と出会い結婚しました。 |
芸は身を助く |
結婚して、子どもが生まれ、家内と私は一身上の都合で退団したのですが、家内は私と一緒に「丸太や」で呉服業に携わってくれました。呉服屋になった家内は、着物を着て店頭に立つようになり、着物を着る楽しさを知り、お客様にも、一生懸命、着物を着る楽しさをお伝えするようになりました。ただ、着物を着ると、4歳の時からバイオリンを弾き始め、ずっと肌身離さず持ち続けてきたバイオリンから離れるのが寂しいと、バイオリンが描かれた着物や帯がないかと探し始めたのです。家内の願いを染色家の横山喜八郎さんが叶えて下さって、生まれたバイオリンの帯。私たち夫婦が夢みた「丸太やオリジナルコレクション コンサート」は、素晴らしい染織家や工芸家との出会いを頂いて「丸太や」の看板商品になりました。 今、思い返すと、私が高校に入学した時、母が入学祝に買ってくれたステレオ電蓄でレコードを聴き始め、モーツァルトが大好きになり、昼はひねもす、夜はよもすがらレコードを聴き続けて、とうとう大学でオーケストラに入ってチェロを弾き始めたのが全ての始まりでした。音楽を趣味として、仕事だけでは得られない出会いを沢山いただいて、家内と出会い、家内との出会いから「丸太やオリジナルコレクション コンサート」が生まれました。もし音楽を趣味として愛し続けていなかったら、家内と出会うことはなかったでしょう。家内と出会っていなかったら、私の人生は、今ほど充実してはいなかったでしょうし、家内との出会いから生まれた「丸太やオリジナルコレクション コンサート」が生まれていなかったら、「丸太や」は、今ほど堅調に商売を続けることはできなかったでしょう。趣味の個人的効用はここに極まるのです。 |