「三久録」は、庵主、三木久雄の備忘録です。日々の暮らしのなかで感じたこと、考えたことを取り留めもなく書き綴りました。タイトルの「三久録」は「三・六・九」のモジリです。

2026年4月20日


  元町150年 第三稿

バナナ

 私は三男です。しかし私が生まれた時、二人の兄は既にこの世に居ませんでした。幼くして亡くなったのです。その後、二人の姉が生まれたのですが、商家を営む両親にとって跡取り息子の誕生を熱望していたことでしょう。そして六年後に私が生まれたのです。私は長い間、私の出生の事情について深く考えたことは一度もありませんでした。両親が私のことをどう思っていたかなどと。
 物心ついた頃から私の世話は女中さんがしてくださいました。母は毎日、父と一緒に店に出て、朝早くから夜遅くまで、ほとんど休みなく商売に励んでいたからです。女中さんは服の着替えからなにから手取り足取り甲斐甲斐しく私を世話してくださいました。私はいつも「数ちゃん、数ちゃん」と女中さんの中田数子さんの名前を呼んでいました。「お母さん、お母さん」と呼ばないで。その頃、母は「久雄はいつも数ちゃん数ちゃんと呼ぶの」と寂しそうに漏らしていたそうです。
 私が小学校5年生の時、父が亡くなりました。中田数子さんも結婚されて居なくなりました。これまで以上に母は毎日、店に出て商売に励んでいましたので私と妹は二人の姉が世話してくれました。しかし今になって思い返すと母は私のことが気になって気になって仕方なかったのでしょう。残されたたった一人の息子だから。中学生の頃から私は、母の私への気遣いが鬱陶(うっとう)しかった。構われたくなかった。自覚はなかったけれど母とはほとんど口を利(き)かなくなっていました。つい最近になって家内から、姉と妹が母と私の間に会話の無いことをとても心配していたと聞かされました。高校生の頃、私は母の過干渉で駄目にされた、スポイルされたと思っていました。だから大学への進学は家を出ることだけを考えて早稲田大学を志願したのです。
 早稲田大学に入学して下宿生活を始めて、しばらくたった頃、母から荷物が届きました。ダンボールの箱を開けると、チキンラーメンとか好物の神戸風月堂のマロングラッセとかが入っていて嬉しかったのですが、バナナが一房入っていたのです。当時、大きな荷物は着荷まで数日かかったのでバナナは腐りかけていました。すこし黒ずんだバナナを見て私は「盲目の愛」という言葉を思い浮かべたのです。生まれて初めて、母に愛されていたのだと気付いたのです。
 今から17年前、母は満94歳を目前にして亡くなりました。お葬式が済んで数日後、私は母の想い出を「ひとすじの道 母の想い出」という小文に書き、姉や妹、親戚、知人に送りました。

2026年4月10日


  偶然と必然

 3月28日は私たち夫婦の結婚記念日です。1982年3月38日に生田神社で挙式しました。その前年の秋に「私と結婚してください」と申し込んだのです。家内と結婚することになって私は、なぜ二人は結ばれたのか、と考えたのです。何より家内と出会えたこと。なぜ家内と出会えたのか。大阪シンフォニカ―に入団したから。なぜアマチュアの私がプロのオーケストラを目指して創設された大阪シンフォニカ―に入団できたのか。沢山の人との出会いがあったから。それ以前に大前提として、なぜ私がチェロを弾くようになったのか、という風に家内と出会う経緯(いきさつ)を逐一思い返すと、すべてが偶然だと気付いたのです。偶然に偶然が重ねって繋がって家内と出会えた。もしあの日、あの時、あの場所に私がいなかったら、私は全く別の道を歩んでいた。家内と出会うことは金輪際、無かった。そう考えたら、家内と出会えたのは奇跡だった。
 すべては偶然の結果だった。しかし一つ一つが偶然ではあったけれど右に進むか左に進むかの岐路に立った時、右に進むか左に進むかを決めたのは私です。硬貨を放り投げて表か裏かで決めたのではない、いつも私が決めた。自分で選んだ道を歩み続けて家内と出会えた。家内も私と同じように自分で選んだ道を歩み続けて私と出会った。二人を結んだ赤い糸を手繰り寄せたのは私たち二人だった。そう気づいた時、二人が出会ったのは必然だったと思えたのです。出会うべくして二人は出会ったと。偶然を必然に変えたのは私たち自身だった。
 私たち二人が出会って「丸太やオリジナルコレクション コンサート」という音楽をモチーフにしたオリジナル商品が生まれました。その誕生秘話を「コンサート物語」に書きました。