「三久録」は、庵主、三木久雄の備忘録です。日々の暮らしのなかで感じたこと、考えたことを取り留めもなく書き綴りました。タイトルの「三久録」は「三・六・九」のモジリです。

2026年10月30日


  安直

 第二次世界大戦の敗北で国土が灰燼と化し、焦土に帰した日本の再生に、戦後、全国民一丸となって奮闘努力し、我が国は奇跡の復興を成し遂げました。しかし時代が昭和から平成に移行する頃、高度成長の成功体験に慢心し、「今だけ、金だけ、自分だけ」の「三ダケ主義」が国内に瀰漫し、バブル経済を惹起させ、バブル経済崩壊後は、経済大国日本の面目は跡形もなく消え失せ、いまだ復活の切っ掛けすら掴めないのです。何故なのか、その理由を私なりに問い続けてきました。
 日本の衰退、日本人の劣化の原因を考え続けて、私が思い当たったのは「安直」の二文字です。戦後、日本が奇跡の復興を成し遂げられたのは、社会全体に漲(みなぎ)った進取の精神だった。戦前「安かろう悪かろう」で粗悪品の代名詞のように言われた「メイドインジャパン」が、戦後、その高品質、高性能で世界を席巻したのは、ひたすらに、真っ直ぐに、生真面目に「ものづくり」に徹したからです。
 「メイドインジャパン」が世界中で高い評価を受け、輸出大国に成長した日本の企業には多大な利益が生まれました。企業はその利益を資産運用で更に利益を産もうとしたのですが、「楽して儲ける」カネがカネを産む資産運用にかまけて「ものづくり」を蔑(ないがし)ろに等閑視し、バブル経済を惹起したのですが、バブル経済崩壊後も「ものづくり」に回帰するのではなく、「楽して儲ける」悪癖を抜け出せず、為替差益が生じるように円安誘導を招来し今日に至っています。
 私は神戸元町商店街で呉服業に従事して53年になります。零細小売業者として人並みに苦労してきたのですが、日々の商売で体得したことを「呉服屋随筆集」に「商鑑」「商道」「商売事始」として書き留めました。商売の鉄則は「信なくば立たず」の言葉通り、お客様に信用していただけなければ商売は出来ない。お客様は誰よりも厳しい審判者なのです。商売人にとって何より大事なのは商品です。商品は「ものづくり」から生まれる、「ものづくり」の「こころ」から生まれる。であるが故に商売人は「ものづくり」の「こころ」を何より大切にしなければならないのです。しかし「ものづくり」の「こころ」を蔑(ないがし)ろにして、唯に利ザヤを稼ぐことに執心し、あの手この手で消費者を惑わす詐欺まがい商法が横行している。しかし「安直」な商売は、お客様によって間違いなく駆逐されるのです。
 私は、かつて商店街活動に携わった時期がありました。様々な活性化事業を企画し実行したのですが、次第に果たして本当に商店街を活性化させることが出来ているのだろうか、と疑問に思うようになったのです。商店街活性化事業の本来の目的、使命は商店街に店舗を構える店舗の商売が活性化することにある。果たしてそうなっているのだろうか。集客イベントで来街者が増えた、賑わった。では店舗の売り上げが増えたのか、商店街の知名度が上がったのか。商店街が活性化するとは、先ず個々の店舗の商売が活性化する。すなわち来店が増える、売り上げが増える。であるなら商店街活性化事業とは先ず個々の商店が活性化することだ。「街づくりは店づくりから」。しかし「店づくり」は「言うは易く行うは難し」。個々の店舗の真摯な営業努力によってのみ成し得るのです。決して「安直」な集客イベントで達成できるものではないのです。
 「安直」の反対語は「実直」です。「安直」に走った日本人は、「実直」さを失いました。日本の悲劇の始まりです。

2026年10月20日


  世論

 日本の映画史上、黒澤明は傑出した映画監督です。しかし私は、最近まで黒澤明監督の作品を観たことがありませんでした。「日曜日以外はサンデー毎日」になって映画三昧の日々を過ごせるようになって、黒澤明監督の映画を観たくなったのですが、これはどうしても観なくては、と決めたのは写真家の三木淳について調べているなかで、ウイキペディアの記事を読んだからです。三木淳は外国に旅行に行くたびに各地で「クロサワ!ミフネ!と声をかけられ、この二人が創り上げた名作の数々が世界の津々浦々にまで行き渡って、戦後日本の沈滞した空気を払いのけ、日本が再び価値の在る国だと世界の人々に認識させたと言って過言ではない」という一節を読んだからです。
 目下、黒澤明の作品を「用心棒」「七人の侍」「赤ひげ」「椿三十郎」と観て、ついこの間「天国と地獄」を観たのですが、誘拐事件がストーリーの劇中、捜査に奔走する警察が、最初に報道機関に記者会見をする場面で、「極めて厳しい事件なので詳細な報道は控えてください。しかし世論を味方にするように記事を書いて欲しい」と依頼するのですが、意外だったのは「世論」を「せろん」と呼んでいたことでした。さらに劇中、必ず「世論」は「せろん」と呼んでいたのです。あの当時「世論」は「よろん」ではなかったのだと驚きましたが、それ以上に私は「世論を味方にするように」という警察の要望が強く心に残ったのです。
 私は日本社会の現状に強い危機感を抱いて、「来るべき社会像」という一文を「現代社会論」として発表したのですが、状況は私の希望とは真逆に向かっている。何故なのか、如何にすれば良いのかを考え続けているのですが、そうだ、「世論」を味方にすれば良いのだ、しかし、どうやって。「世論」を味方にするためには、先ず「世論」が一体全体、何なのかを理解しなければなりません。「世論」を知るためには、新聞、テレビなど報道機関が実施している世論調査を見ることが簡便でしょうが、同時期に実施された世論調査の結果が各社各様で必ずしも同一傾向ではないことを考えると、肝要なのは結果の見方になる。しかし世論調査に「世論」の動向が窺(うかが)えることは間違いないでしょう。
 ところが最近の世論調査の結果は、私の期待とは真反対なのです。一体全体、何故だ。意図的に「世論」は誘導されているのではないか。トドノツマリ、国民は馬鹿なのだ、と口走ってしまうのですが、しかし「世論」を敵に回して良いことは何もない、反感を買うだけだ。民衆は愚かだ、と頭ごなしに否定する傲慢な態度が一番嫌われる、とやっと最近気づいたのです。誰も皆、この厳しい時代を必死で頑張っている。私なんか、ナマチョロイ生き方しかしていない、他人様(ひとさま)にエラそうに言える人間では決してない。かと言って、私の判断を安直に変えるわけにはいかない。信念と言えば大袈裟かもしれないけれど、それなりに私自身が深く考えた結論だからです。
 問題は、どうやって私の出した結論に共感していただけるのか。今、SNSがトンデモナク悪用されてトンデモナイ「世論」が出来てしまっている。だったら、SNSをシッカリ善用してシッカリした「世論」を形成することが大事ではないか。それは十分可能だ、と私は考えます。誰かが読んでくれているわけでもないのに、私が「三久庵」を書き続けているのは、私の想いが少しでも他の誰かに伝えられたら、と思うからです。

2026年10月10日


  二律背反

 私が高校に入学した御祝に母親がステレオ電蓄を買ってくれて、レコードでクラシック音楽を聴くようになりました。モーツァルトが大好きになり、明けても暮れてもモーツァルトで、昼はひねもす夜はよもすがら、モーツァルトのレコードを聴き、モーツァルトについて書かれた本を読みました。ところがレコードを聴き続けるうちに、当然ながら、もっと良い音で聴きたいという思いが募ったのです。音楽之友社が出版していた「レコード芸術」の別冊「ステレオのすべて」を食い入るように見て、このアンプ、このトーンアームでオーディオコンポーネントを組んでレコードが聴けたらと憧れたのです。以来、今日に至るまでオーディオと格闘!?してきました。
 何十年とオーディオと格闘して、無駄も一杯でしたが無意味でもありませんでした。大事なことに気が付いた。「二律背反」、硬いものは柔らかくはない。明るいものは暗くはない、と気付いたのです。私はレコードで聴く音楽については完全に雑食系です。クラシック、ジャズ、ポピュラー、ヴォーカル、タンゴ、歌謡曲、民謡、なんでも聴く、楽しんで聴く。クラシックだけでもオーケストラ、コンチェルト、カルテット、ソロ。演奏家も有名、無名。録音年代も100年前から直近まで。実に多種多様なのですが、基本、同じオーディオ装置で聴いている。すると、この音楽はもう少し柔らかい音で聴きたい、とか、もっと硬い音で聴きたい、とか、もう少し明るい音で、もっと暗い音で、と思わなくはないのですが、「二律背反」、硬いものは柔らかくはない。明るいものは暗くはないのです。
 勿論、オーディオ装置を構成する、スピーカー、アンプ、レコードプレーヤーそれぞれに個性があって、硬軟、明暗の傾向がある。オーディオマニアの中には、気に入る音を求めてオーディオ装置を買い替える方がいらっしゃって、気に入る音を求めて次から次へと買い替える御仁もいらっしゃる。残念ながら私は資力が乏しいお陰で、音の迷路に迷い込むことはありませんでしたが、それでも愛器で気に入る音を出せるように悪戦苦闘、試行錯誤を繰り返すうちに辿り着いた結論は、「二律背反」、硬いものは柔らかくはない、明るいものは暗くはない。ならば、硬軟、明暗の真ん中あたりを見つけるしかない。
 中国の経験知は「中庸は徳の至れるなり」。出典は「論語」だそうですが、中国では長い間、学問の基本は「四書」でした。「四書」とは「論語」「孟子」「大学」「中庸」。私は残念ながら「論語」と「孟子」は読みましたが「大学」「中庸」は読んだことがありません。なので、いい加減な話しか出来ませんが、「中庸」に説かれているのは、「二律背反」、硬いものは柔らかくはない、明るいものは暗くはない。ならば、硬軟、明暗の真ん中あたりを見つけるしかない、という話ではないか、と勝手に解釈しています。「中庸」を易しい言葉で言い換えると「中道」でしょうか。