2026年8月30日 |
追悼の辞 |
| 2000年、何時ものように海文堂を訪ねたら島田誠さんが「三木さん、今回、海文堂を辞めることになりましたので元町ミュージックウィークも離れます。大政奉還ですね。これからどうしようかな。駐車場の管理人でもなるかな」と仰られたのです。余りに突然の話で返す言葉が無かったのですが、何より衝撃だったのは、いつも堂々とされている島田誠さんが何故か小さく見えたのです。しばらくして「ギャラリー島田」を開廊されたというお知らせを頂きホッとしました。海文堂の社長をされていた時のように足しげくお訪ねしてお話をさせていただけなくなったのですが、ご相談させていただきたい時には北野ハンター坂のギャラリー島田にお伺いさせていただきました。身体全体から生気が漲っておられました。 ギャラリー島田からは毎月、画廊通信を送っていただき、今まで以上に精力的な活動を拝見していたのですが、私自身は、2005年第9回「元町ミュージックウィーク」終了後、事務局長を退任し実行委員会を離任しました。翌2006年には元町一番街振興組合の副理事長も退任し、商店街活動からも離れました。1995年から係わった商店街活動に気力、体力を使い果たしたのです。私が島田誠さんに「元町ミュージックウィーク」の夢を語った時、「商店街は商売をする所で文化は馴染まないのです。それにお金はどうするのですか」と切り返された、その言葉どおりでした。奮闘努力の甲斐もなく、と言うのは言い過ぎでしょうが。 私は島田誠さんとのご縁を頂いた頃、島田誠さんが歩んで来られた道を、私も歩んで来たことに不思議な縁を感じたのです。島田誠さんは1942年、神戸市須磨区潮見台町でお生まれになられたのですが、私の生家は神戸市須磨区離宮前町で、徒歩15分の距離なのです。出身校が、神戸大学教育学部付属明石中学校、兵庫県立神戸高校と同窓でした。そして1973年、共に元町商店街で商売に従事することになったのです。1994年、島田誠さんは神戸元町商店街の「元町生誕120年記念事業」の実行委員長を務められたのですが、その10年後に私は「元町生誕130年記念事業」の企画委員長を務めました。 私は、いつも島田誠さんの背中を見続けて、後を追い続けてきました。しかし、いつの間にか島田誠さんはドンドン前に進まれて、気が付いたら私の視野には見えなくなられたのです。2025年12月26日の訃報に接し、12月29日の葬送式で島田誠さんの尊顔を拝し、如何に島田誠さんのお世話になったかを思い返しました。島田誠さんは巨人でした。比して私は小人(こびと)だった。しかし小人の私が今日ここまで真っ当に人生を送ることが出来たのは島田誠さんの背中を見続け、後を追い続けてきたからです。 2026年3月、「神戸に生きて―島田誠メモリアル展」を拝見にお伺いし、ギャラリー島田の代表になられた島田容子(やすこ)さんとお話をさせていただきました。後日、島田容子さんからお電話を頂戴し、島田誠さんが創設された公益財団法人「神戸文化支援基金」の評議員への就任の依頼を頂きました。分不相応を承知の上、お受けいたしました。SNS上での誹謗中傷、罵詈雑言による人心の荒廃、民主主義の破壊によって日本社会が崩壊の危機にある今、文化によって、人を、街を創り育てるという島田誠さんの大志が風前の灯(ともしび)になりつつある今こそ、島田誠さんの遺志を受け継ぐことが大切ではないかと思い至ったのです。 |
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2026年8月20日 |
元町ミュージックウィーク |
| 1995年6月、私は元町1番街商店街振興組合の理事に就任しました。元町商店街で商売に従事するようになって以来、初めて理事会に出席するようになり、商店街の活性化、とりわけ阪神淡路大震災後の復興を議論する中で、かつてなく私なりに商店街活動を考えるようになりました。弊店が音楽をモチーフにした「丸太やオリジナルコレクションコンサート」を制作するようになり、販促のために「モトマチミュージックウィーク」と名付けたコンサートを始めて、私の心の中に音楽の輪を元町商店街に広げられたら、という夢が生まれたのです。 当時、元町1番街商店街の理事長はカメラ屋さんのご主人でした。写真が趣味の私が普段お世話になっている方でしたので弊店で開催する「モトマチミュージックウィーク」のチラシをお持ちして配布の協力をお願いした折、私の夢、元町商店街で「モトマチミュージックウィーク」が開催できないか、とお話ししたら「三木さん、良い取り組みですね。理事会で提案してください」と仰ってくださって、意気揚々と提案したら、「なんでクラシックや、クラシックで客が来るか」と一蹴されました。 しかし私はめげずに、そうだ、海文堂の島田誠さんなら理解して協力してくださるのではないか、と考えました。その頃、島田誠さんは震災の打撃で壊滅状態の神戸の文化を復興するために詩人・画家・音楽家と共に「アート・エイド・神戸」を立ち上げられ奔走されていたのですが、私の話を聞かれて「商店街は商売をする所で文化は馴染まないのです。それにお金はどうするのですか」と仰られたのです。この方にして、この言葉か、と私は落胆したのですが、島田誠さんは、シッカリと私の想いを受け止めてくださって「元町ミュージックウィーク」実現にご尽力下さったのです。 1997年10月、私の念願かなって「元町ミュージックウィーク」が開催の運びとなり、私は度々、海文堂を訪ねて島田誠さんに準備、実行の手順を相談に上がりました。私は商店街活動の経験が全く無かったので人と事とを動かすのに何が大事か、必要かを教えていただきました。島田誠さんは、実務家であり戦略家で、組織力と統率力をお持ちでした。島田誠さんの実行力で「元町ミュージックウィーク」は第1回目の開催を成功裏に終えることが出来たのです。「元町ミュージックウィーク」は第2回、第3回と回を重ねる度に規模が拡大していき、神戸を代表する音楽イベントに成長し、私は「元町ミュージックウィーク」の事務局長として神戸市の政策提言会議、都心活性化戦略会議、神戸アートウォーク実行委員会、神戸文化ホール活性化委員会、神戸創生会議、神戸国際音楽祭検討会議等のメンバーに入れていただきました。 |
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2026年8月10日 |
出会い |
| 元町商店街に島田誠さんという立派な方がいらっしゃる、しかし当時の私には遠い人でした。場外馬券売り場の反対運動にも心情的に共感しながら積極的に参加しようと思っていませんでした。自分の商売だけで精一杯だった。ところが状況が一変したのです。1995年1月17日、阪神淡路大震災勃発。まさに驚天動地で状況が一変したのです。自分の店が一体これからどうなるのか、商店街はどうなるのか、神戸はどうなるのか、まったく想像のできない異常な状況に陥ったのです。1973年の「丸太や」入社以来、商店街活動に一切係わらなかった私でしたが、自分の店の問題だけではなくなったのです。これから店をどうするのかが、商店街を、神戸をどうするのかの問題になった。震災後、私は断り続けていた元町1番街商店街振興組合の理事になりました。 火急の課題は「丸太や」の商売をどう続けて行くのかでした。震災の一年前、音楽をモチーフにした「丸太やオリジナルコレクションコンサート」を発表し、その展開に希望を持った、その直後の大惨事でした。私たち夫婦が音楽が大好きだから生まれた「丸太やオリジナルコレクションコンサート」。神戸で商売が出来そうにない異常事態の中で、神戸以外の地域で「丸太やオリジナルコレクションコンサート」を発表する以外に生き残る道はないと腹を括りました。全国各地に出向いて「丸太やオリジナルコレクションコンサート」の販売会を開催することに活路を見出そうとしたのです。各会場では同時にミニコンサートを開きました。なぜ私たちが音楽をモチーフにしたオリジナル商品を制作したのか、それは私たち夫婦が音楽が大好きだから、というメッセージを伝えたかったのです。 震災の年の秋10月、少し落ち着きを取り戻した神戸元町の「丸太や」店内で「丸太やオリジナルコレクションコンサート」の新作を発表したのですが、店内2階で「モトマチミュージックウィーク」と題したコンサートを開催することにしました。なぜ「モトマチミュージックウィーク」と名付けたかというと私に夢があったからです。音楽が元町商店街に、なにげなく、さりげなく流れたらどんなに素敵だろう、という。しかし呉服屋の2階でコンサートが開かれるなんて誰が気づいてくれるだろう、どうやったら知ってもらえるだろう、とプログラムをチラシにして、さてどこに置いてもらおう、と考えて、そうだ、海文堂のラックにコンサートのチラシが色々置いてある、置いてもらえないだろうか、とお願いに上がりました。初めて言葉を交わした島田誠さんは、とても穏やかで優しい方でした。「そのラックに差し込んでください」と仰ってくださったのがお付き合いの始まりでした。店内のコンサートにお越しくださって、聴き終わって「三木さんのチェロは旦那芸ではないですね」と仰ってくださったのです。 |
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